反核平和運動と革命運動

―反トマホーク運動の成功のために―

これは、去る三月、東京の学生たちに話した当面する反核平和運

動についての講演に、筆者が手を入れたものである。(編集部)

 

松江

 

労働運動研究 19846月 No.176

 

  今日は三つの問題を提起したいと思う。第一は、君たちがいまとりくもうとしている反トマホーク闘争。これは果たして盛り上がっているのか、盛り上がっていないのか。八二年の反核の大軍はどこへ消えうせたのか。危機感はあるのかどうかということです。

  二つめは、イデオロギーと大衆的な反戦反核運動とのかかわり合いの問題です。私たちは広島で、炎暑の夏も寒風吹きすさぶ冬の日も慰霊碑の前に坐りこんで〃いかなる国〃の核実験・核兵器にも反対する抗議行動をつづけている。一体この〃いかなる〃というスローガンは、中立主義のスローガンなのか。革命的あるいは階級的な立揚に立つ者にとっては、日和見主義的なスローガンなのか、それとも戦闘的なスローガンたり得るのか、という問題をとおして、イデオロギーと運動の問題について提起したい。

 そして最後に、私たちがその一環として闘おうとしている現代反核運動とは何か。それは革命運動と平和運動とのかかわりについて、新たな次元でどうとらえられるべきであろうか。この三つの問題を提起したいと思うのです。

 

核戦争と危機感

 

  そこで第一の問題からはじめよう。はじめに私がふれたように、八二年の反核運動であれだけ多くの人人が集まったことは、この運動はじまって以来のことです。「ビキニ」の反原爆運動ーそれはまさに日本中が炎となって燃えたーの時にも、あれだけの人が集まったことはなかった。二〇万、三〇万、五〇万と、一年の間に三つの都市であれだけの人が集まった。そうして、二〇万も集まると、誰も号令できないことが、まず広島から証明された。新しい運動が芽ばえ始めたと思った。

 いまトマホークー直径が五三センチ、長さが六・ニメートル、それでいて広島の原爆の十五倍の破壊力を持つーが、アメリカのアジア艦隊の百二隻の軍艦にみな取り付けられようとしている。もしこれが全部取り付けられたら、トマホークはいつでも日本の頭ごしにシベリアへ飛ぶ可能性がある。横須賀には去年一年で二十三回もアメリカの艦船が入港している。そういう状況のなかで一体あの八二年反核のエネルギーはどこに消え失せたのか。なぜ危機感がないのか。危機感があったらそれでいいのか。という問題をまず皆さんと考えてみたい。

 たしかに運動がおきるためには、危機感が重要な条件だと思う。たとえば一九五〇年。当時日本はアメリカ帝国主義の占領下にあった。こうした日米二重権力下で朝鮮侵略戦争に反対する闘いをわれわれがやったときには、日本を基地にしてすぐ隣の朝鮮をアメリカ帝国主義が侵略するどいうきびしい危機感がわれわれをとらえ、また目本人、朝鮮人の青年たちをとらえて、日朝青年三百名が中国地方から広島に結集して非合法の反戦闘争を闘った。

 それから四年たった五四年の「ビキニ」の時には、久保山さんが原爆症で亡くなった。それだけではなく、放射能で汚染したマグロを通じる放射能の危機感が全国のすべての台所を襲った。婦人が、青年が、民衆が立ち上がった。そういう危機感から生まれた運動であることには間違いがない。それがたとえひとりひとりの自立的なエネルギーの巨大な集積ではなく、「ビキニ」で点火された国民的な、ナショナルなエネルギーの爆発であったとしても、そういう危機感から生まれた。もちろんそれは核戦争の危機感というよりも、放射能汚染の危機感であった。

 それでは八○年代に入って、疾風のように発展したあのヨーロッパの反核運動はどうか。これはまさに自分たちの住んでいる街の軒先から核戦争への引き金が通じているという、その現実的な危機感からあの運動は起きたに違いない。それでは一体日本のあの八二年の反核大集会にどうしてあんなに集まったのか。危機感はなかったのかあったのが。私は確かにあったと思う。あったと思うが、それはヨーロッパのように自分たちの街の庭に取り付けられる新しい核戦争の道具に対して具体的な抗議行動を起こすという、そういう意味で日本の現実から出発したというよりも、ヨーロッパのあの巨大な反核運動を媒介とした間接的な危機感ではなかったか。だからこそ、いま屋気楼のように消え失せてしまったのではないか。

 それでは一体いま危機はあるのかないのか。危機はもちろんある。先ほども言ったように、トマホークを搭載した艦船が何十回となく日本に寄港することになれば、ドイツやイギリス、オランダに据え付けられる核ミサイルと事実上同じこととなる。もし海中からそれを発射するとすれば、日本列島の上を飛び越え、シベリヤのソ連基地に向けて飛んで行くに違いない。デジタルマップによって、ミサイルは地を這い、谷にかくれ、山を越えながら新しい核戦争の引き金になるに違いない。危機はある。危機はあるのに危機感がない。それはなぜか。ヨーロッパの場合には、明確に公然と陸上で、みんなの見ている前でみんなの街の庭に据え付けられる。極東の核はどうか。同じような核が、海中深く潜行して姿を現わさない。時として姿を現わし、日本に寄港しても、「事前協議」を隠れ蓑にそんな核はあるはずはないとうそぶく。事実が巧みに隠蔽されている。

 もし自然に生まれてくるような危機感を待つのであれば、おそらく私たちは核戦争の前の日いやその瞬間まで危機に気づかないことになるに違いない。だとしたら、私たちはそのべールを剥いで、それがどんな危機であり、それがどんなに日本にわれわれに現実に迫っているかを暴きたてなければならない。そこにヨーロッパの危機との相違もある。

 それでは危機感さえあればそれでいいのか。危機感さえあれば必ず運動がおきてくるだろうか。そうではないと私は思う。あのドイツのヒットラーのナチスが権力をとったときはどうであったか。一方では、左からの革命的危機がしだいに近づきつつあった。そして他方では独占資本主義の深刻な経済恐慌が襲いつつあった。そういう二つの危機の狭間に動揺する中間層の危機感を煽って、巧みに組織することでドイツ・ナチズムはヒットラーの独裁体制を樹立した。日本の戦前の揚合はどうか。

当時の政府は、一方ではアメリカが日本の「生命線」をおびやかすといい、他方では北方からソビエトの赤い熊がネラっていると国民の危機感を煽ってあの戦争をおこした。

 しかしわれわれは外国の例、過去の例を引くまでもない。現にいま中曽根のやっていることを見れば、明らかに国民の危機感を煽っている。ソ連がいつ攻めてくるかわからん、なんとかソ連に対して備えをしなければ目本はやられてしまう。自衛隊を強化しなければならない、と。彼らは国民の危機感を巧みに煽りつつ、自衛隊のいっそうの増強、日米軍事同盟のいっそうの強化をいま押し進めている。とすれば、単なる危機感だけではダメだ。それだけでは人々を運動に組織する条件にもなるが、また同時に支配者が人々を戦争と軍国主義へさそいこむ条件ともなる。双刃のやいばだ。

 支配者たちはいつでも、人民の眼に色眼鏡をかけて真実を隠してしまおうとする。とすれば、われわれは明晰な階級の眼鏡で、真実をはっきり見極めて危機を提起しなければならない。しかし、それだけではやはり力にはならないのではないか。もしそれを客観的な危機感というならば、重要なことは主体的な危機意識をどう組織するかということではないか。つまり、こういう危険な状態のもとで、われわれが立ち上がらなかったなら、あるいは労働者が立ち上がらなかったなら、学生が立ち上がらなかったなら、一体どうなるんだという主体的な危機意識を組織するのでなく、客観的な危機感だけ煽るとしたら、たとえそれが真実であっても闘う力には転化はしないであろうということです。客観的な事実を行動に転化するためには、真実の眼鏡を通して見た事実を正確に知らせながら、ひとりひとりが持っているに違いない主体的な危機をどうくみだすのかということから始めなければならないと私は思います。

 主体的な危機意識こそ客観的な事実と行動との媒介なのです。結局、第一の問題について結論的に言うならば、危機は待っているべきではない。われわれが正確な事実をとらえ、それを人々に伝達しなければならないということ。そしてまた、誰かが上から号令をかけるのを待つの.ではなしに、ひとりひとりが自立的に立ち上ぶる主体的な危機意識を創りだすことでなければならないと思います。そこで私たちは、この危機の問題を通じて第二のテーマに移ることになる。

 

"いかなる"問題の意味

 

 核戦争の危機という場合に、いつでもアメリカの核ミサイルとともにソ連のSS20がひきあいに出される。SS20とパーシングU。あるいはSS20とトマホークという形でわれわれの前に核戦争の危機が提起される。それに対してわれわれはどのように対時するのかという問題です。私は、いかなる国の核兵器も反対であると率直に提起しておきました。アメリカの核兵器であれ、ソ連の核兵器であれ、アメリカの実験であれ、ソ連の実験であれ、私たちは広島で反対しつづけてきた。しかしそれは私が広島人であるからだけではない。それは特殊広島的なものではないと私は考えています。それは単なる中立主義的なスローガンでもないし、また中立主義的なスローガンでもある。中立主義的なスローガンであるから、人々がたくさん参加することは事実です。それでは、本音と立て前を使いわける二枚舌なのかと問われたら、けっしてそうではないと私は答える。本当は社会主義の核実験には反対したくないのだが、みんなと一緒に運動をやらないとまずいから、自分がコミュニストであるにもかかわらず、自分を偽っていかなる国の核兵器にも反対するのかと聞かれたら、ノーと私は答える。

私はむしろ自分がコミュニストであるがゆえに、社会主義的な変革を目指すがゆえに、私はこの〃いかなる〃というスローガンは戦闘的で階級的なスローガンでもありうると考えている。

 このことと関連して、私たちは長い間日本共産党と理論的に闘ってきたし、批判もしてきた。それでは日本共産党はどんな立揚からどんな主張をしていたのか。社会主義の核兵器と帝国主義の核兵器は違う。したがって社会主義の核兵器と帝国主義の核実験は違う。帝国主義の核兵器は核桐喝のための、世界支配の武器である。社会主義の核兵器は帝国主義から社会主義と人類を守るための防衛的な核兵器である。これを同列に論じるべきでないというのが、当時のイデオローグ上田耕一郎の理論であった。だから彼らは、長く停止していた実験を最初にソ連が再開した時に、同じような論法でわれわれに挑んできた。広島では街頭演説で、社会主義国が実験する「死の灰」なら喜んで被りますと言って、人々に嘲笑された共産党県委員会の幹部もいた。そういう上田理論に対してわれわれは徹底して闘ってきた。もっともこの頃の共産党はすっかりボケて、そういうことさえ言わなくなった。

 問題は一体どこにあるのか。二つの問題がある。第一の問題は、このスローガンは誰と敵対するスローガンであるのかということです。〃いかなる"〃という、公然と誰でも納得し誰も反対できない論理のなかで、事実上このスローガンは核兵器をいっそう強化し、それを桐喝の武器にし、あわよくば社会主義もぶっつぶし、人民を殺してまでも死の商人が巨大な利益を得るために使おうとしている帝国主義に対してこそ、立ち向かう戦闘的なスローガンである。

社会主義の核兵器が人類を守るためのものであれば、当然このスローガンを喜んで受け入れるはずです。もう一つは、帝国主義であろうと社会主義であろうと、核兵器に階級性はないということです。誰が持とうと大量殺織の兵器であり自然と人間を破壊しつくす兵器であることに変りはありません。そのうえ核兵器というものは、ただ破壊し殺織するときだけが問題なのではない。さらに問題なのは、引き延ばされ日常化された危機なのです。人類の今日までの可能な限りの英智をしぼって逆に人類皆殺しの手段にその知識と技術を集中してつくったこの武器は、この武器を頂点とした軍事的、日常的なしくみのなかで労働者人民を管理する、そういう性格を持っている。「一朝有事」的な危機意識とコンピュータとの結合は、恐るべき権力的な統合管理を生み出す。そういう意味で私たちが帝国主義的な人民の管理統合に対して闘うのは当然である。しかし同時に。労働者と人民が主人公になる社会主義を創ろうとするならば、私たちはこの核兵器とそのための核体系をそのままにしてはわれわれの目指す社会を創ることはできないであろう。私たちがもし新しい理想社会を求めようとするならば、その前にこの核兵器と核兵器を頂点とした核管理体制を絶滅させなければならないということ。これが私の提起したい二つめの問題です。

 私たちはけっして社会主義と帝国主義を、たとえ社会主義に批判が山ほどあったとしても、同列に論じているのではないし、また同列に論じてはならない。私たちはそれを明確に区別したうえで、なおかつこのスローガンが帝国主義と最も正面から敵対するスローガンであること、さらにまたその管理をも含めて、核兵器そのものの絶滅が新しい社会を創るうえで必要不可欠なものであると、いうこと。そういう意味で私たちは〃いかなる〃国の核兵器、核実験に対して今日まで闘ってきたし、今後とも闘いつづける必要がある。それは特殊広島的なものではない。あるいは特殊日本的なものでもない。

 私は去年の六月、プラハの世界平和大会に行って感じた。私が会場の廊下でどこの国の代表と会っても、広島と聞くと一様に顔をくもらせて私に握手を求めた。会議のなかで必ず広島の名前が出た。あの会議でおそらく最も頻繁に語られた都市の名前は広島であったでしょう。広島、長崎の原体験が、今や人類の原体験、世界の原体験になりつつあると私は実感した。またこの会議のなかで資本主義国の運動を進めている多くの人々が、私たちと同じように汐いかなる"国であろうと核兵器、核実験に反対して闘っているということで、それは単に特殊広島あるいは特殊日本的なものではなく、世界の多くの人々の共通なスローガンになっているということを実感した。

 しかしそれは同時に、広島や日本でも核実験の犠牲だけではなく、帝国主義がくり返している残虐な殺獄に対しても、その痛みを私たちの痛みとすることを求めていると思った。そしてまた、世界の反核運動のなかで、日本が新たな運動の創造には感じました。この〃いかなる〃という問題は、確かに思想にかかわらず多くの人々が共鳴しうる、無党派的な、中立的な、あるいは非階級的なスローガンである。にもかかわらず私たち変革を目指すもの、階級的な立揚に立たうとするものにとっても、これは戦闘的なスローガンたり得ると私は思います。そういう意味で私たちは、私たちの視点、私たちの立場に立ちながら、いっそう多くの大衆と結び合って運動を進めてゆかなければならないと思います。

 

反核運動と統一戦線

 

 そこで私は第三のテーマに移っていきたい。いま皆さんたちが取り組もうとしている反トマホーク闘争は、まさに現代反核運動の一環である。そこで現代反核運動とは何かということです。

日本における過去の運動を比べるならば、現代世界の反核運動は特徴的ないくつかの性格をもっていると思う。その第一は、「ビキニ」からはじまった原水禁運動のようにナショナルと言いきれるような、上からとらえられうる国民的な運動ではないということ。そうではなしに、核ミサイルが設置されるひとつひとつの都市から始まって国際的に拡がった運動である。そしてそのひとつひとつの都市では、決してどこかの組織が上から号令するのではなしに、三人、五人が自立的に立ち上がり連帯して創った運動であるということです。労働組合さえ運動を押えつけようとしているなかで、労働者が下から三々五々自立的に集まって、あの巨大な集会と行動が生まれている。そういう性格の運動である。

それでいて、「優しい戦闘性」とでもいうような性格を持っている。つまり、誰でもが参加し、明るい顔をして手をつないで米ソの大使館を包囲しながら、弾圧されるとなると一人一人が力強い戦士になって連帯して闘い抜く戦闘性、そういうものを持った運動であった。それは本来的に国際的なものでもあった。そういう自立的な国際的な性格を持った運動であるということが、重要な特徴であると私は思います。

そしてまた、もう一つの重要な特徴は、日本のかつての反原爆運動のように、意見の違う課題は次々と切り捨てて、最後に残る最大公約数で「統一」するというものではない。

もちろん日本のように、広島と長崎をくり返すなという一般的なスローガンで終るのでもない。現実に設置されようとしている核ミサイルを撤去せよという具体的な反政府闘争であり、またけっして最大公約数的な「統一」運動ではないということです。彼らは何一つ削らない、何一つ切り捨てない、みんなの持っているどんな要求も出し合い、意見が違っても認め合いながら反核で結ばれる。そして理屈ではなしに、言葉ではなしに、賃金の安いこと、権利が奪われようとしていること、そしてまた失業。あるいは腐敗と退廃。そういった帝国主義の体制が生み出す一切の膿と抑圧に対する憎悪と反感を含めて、その頂点としての反核闘争であるということです。

 これは非常に重要な性格です。みんなそれぞれが持っている反体制的な不満と感情をこめた反核の運動として成立しているということです。

それから三つめの性格についてです。ちょうど昨年七月広島でアジア文学者広島会議が開かれた。そして東南アジアの文学者たちが日本の多くの文学者たちと交流しながら論議をかわしました。おそらく始めてだったと思う。「核、貧困、抑圧からの解放」というのがその会議のテーマだった。単なる反核だけではない。核をはらむ体制が必然的に生みだす貧困と抑圧に反対して闘う運動です。こうして資本主義国内の反核運動にとどまらず、多くの発展途上国の人々と核と貧困と抑圧からの解放を目指して一つに結ばれる、そういう性格を持った運動です。

 もし反体制的な抗議と憤りというものがこの運動の内包であるとすれば、まさにその外延は発展途上国の多くの人民たちの反帝国主義的な怨念とでもいえようか。これは日本の私たちがかつて経験した、あの「ビキ一この運動とは異なる質のものです。そうしてこうした世界の反核運動の波々に揉まれながら、日本の歴史的な原水禁運動は、いま新たな再追求を通じて、世界の運動の一環として立ち上がろうとし始めたということです。その最初の現われ恭、八二年、広島の二〇万人、東京の三〇万人、大阪の五〇万人の集会だっ.た。これだけ人が集まったら、総評の議長や事務局長がどんなに指令してもとおらない。どんなに偉い学者が叫んでも通じない。二〇万人集まれば、誰も号令できないということを知ったのは、日本の運動にとって重要なことであったと思う。

 それは新たな現代世界反核運動とのふれあいのなかで、ようやく生まれ始めた日本の自立的な運動の端緒であった。皆さんは東京の集会へ行ったかどうかは知らないが、いままで喧嘩していたもの同志がとなりあわせで売店をだし、喧嘩しながらでもやはり反核を一緒に闘おうという状態がようやく生まれ始めた。私はこれが本当の統一だと思う。同じ考えを持ったものが一緒に闘うのは統一ではない。それはあたりまえだ。平和運動というのはすぐれて行動で

す。違った意見のものがともに闘うのが本当の統一だということが、ようやく実り始めたのではないか。言いかえれば、それは主体と連帯のかかわりとでも言っていいかもしれない。その主体とは近代的な主体という意味ではない。私が言うのは、近代を駆け足で通り過ぎた日本の運動が置き忘れていた自立的大衆的な主体です。こうした主体が確立されてこそ連帯があり、連帯があるから主体的な自立が必然となるのです。

 

革命運動と反核運動

 

 私が最後に言いたいのは、この運動と革命運動との関わりです。私はかつて反戦闘争の歴史的な発展について書いたことがある。(「平和のための闘争と革命闘争」労研八一号)一八世紀の終りから一九世紀の始め、マルクスやレーニンが生きていた時代、この時代にも平和のための闘いはあった。しかし残念ながら力の弱さから戦争に反対しても、それを食い止めることはできなかった。戦争は避けることはできなかった。

 したがって戦争に反対することは、結局、戦争を生みだす帝国主義を打倒することであり、戦争を内乱に転化することであった。そこでは革命運動と平和運動は別なものではなかった。しかしそれはやがて、第一次世界大戦という未曽有の大規模な戦争を経験した人民の運動が盛り上がるなかで、ファシズムが世界を支配しようとした時期に新たな性格を持ち始めた。

 それは直ちに革命運動や階級闘争と直結するのではなく、ファシズムと戦争に反対するという課題だけで多くの人々が広く結集して闘うという反戦反ファシズム統一戦線の提起であった。しかし同時にまた、闘いとった反戦反ファシズム政府が、労働者政府にいかに接近移行しうるかという追求も行なわれた、いわば過渡的な時期であった。

 そして戦後さらに新たな発展が生まれた。そこではもはや革命闘争と平和擁護運動は完全に分離された。それは二つの大戦を経て、全世界の人民が経験した戦争の残虐さ、それにまた新たな武器とりわけ核兵器がつくり出されるなかで、圧倒的に多くの人々が平和擁護運動に立ち上がるという状況のなかで生まれた新しい性格であった。革命に反対のものでも、労働組合の.ストライキに反対のものでも、どんな思想・信条をもつ人でも誠実に平和を守ろうとする人なら、誰でも参加できるような広いヒューマンな性格を持った運動として発展した。

 そしてそれは、明確に革命闘争とは区別された。しかし果たして全く無関係なのであろうか。かつては戦争の生みだす帝国主義の矛盾の激化を利用しつつ、革命闘争を組織するということであった。現代においては、帝国主義の矛盾が戦争という脱出口を塞がれることから生まれる、いっそうの矛盾の深化をどのように新たな変革に組織しうるかという課題に変わってきた。それは変革を目指すものにとっては、もともと一つであった平和運動と革命運動が、それぞれ別なものとして二つに分離した過程をとおして、再び弁証法的な再統一を求めているということができよう。

 しかしなおかつ、反戦平和運動と革命運動とは明確に区別された運動として追求されなければならない。ところが戦後四〇年近くたった今日、現代反核運動の新しい性格は、この二つの運動のかかわりにどんなものをもたらしたか。かつては一つに結合され、やがて明確に分離されたこの二つの運動において、新しい次元での再結合が生まれ始める兆しを見せ始めたのではないか。

 反核であると同時に、反体制であるような運動。あるいは、帝国主義内の運動だけではなしに、その帝国主義の支配する発展途上国の人民と固く連帯した運動、核と貧困と抑圧がひとつのものとして語られるような運動として起きてきている、この現代反核運動というものは、螺旋状の発展を経ながら、新たな次元で変革の運動と無関係ではなくなってきているのではないか。もちろん、私たちがこの運動に、変革を目指す革命的な運動をセクト的に持ちこんだり引き回したりすることは完全に間違いである。また、この現代反核運動をもって革命運動を代用しようとしたら、これも明確に間違いである。

 しかしなお二つの運動は、人為的にではなくまったく自然に触れ合わざるを得ない。そこに現代帝国主義の凶暴な自然と人間の破壊と抹殺があり、またしたがってそれに対する闘いを否応なく結合させる条件がある。そこに私たちが変革の道を追求しつつも、なおこの運動に正面から取り組まなければならない二重の理由があると思います。もっとも戦闘的なヒュ!マニストとして、そうしてまたもっともヒューマンな階級的活動家として。

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